HOME >> What's New >>「視察研修旅行」に行ってきました。
社員相互の親睦と見聞を広げることを目的に、毎回地学的なテーマを含めた社内研修旅行を行っています。今回は「熊本地震被災地視察」として、平成28年4月に発生した「熊本地震」による被災地を巡る企画で、全社員の内35名の参加のもとに催行しました。
巨大地震「南海トラフ地震」の発生確率が今後30年の内に70〜80%と迫り来るなか、四国地方に生きる私たちにとっても、とても人事とは思えない地震の被害跡を目の当たりにしました。 熊本地震は、平成28年「布田川断層」と「日奈久断層」が連動する活動で発生した地震です。4月14日にM6.5、震度7の地震(前震)が、16日にM7.3、震度7の地震(本震)が熊本地方を襲いました。この地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈りしますと共に、今もなお地震の被害に苦しんでおられる方々に対しまして謹んでお見舞い申し上げます。
(2019.6.13)
STOP1:「熊本城」 九州新幹線で熊本駅に着後、バスで最初の視察地となる熊本城二の丸に直行しました。 3班に分かれ、専属のガイドさんから説明を受けながら城内を巡りました。熊本城の被害状況は、TVでも見ていました。飯田丸櫓が縦一本の石垣で辛うじて支えられている姿は衝撃的でした。 発生から約3年を経て天守閣と連立櫓については修復が進んでいましたが、長塀をはじめ各所で崩壊する石垣は、まだ殆ど手付かず状態に見えました。ガイドさんによると、全ての修復には20年、総工費は634億円(内、425億円は石垣の修築)を要するとのことでした。加藤神社の境内から見上げる天守閣(昭和35年復元)は、たとえ修築中であってもとても立派な構えです。これまで“地震が少ない熊本”だったようですが、江戸時代の265年間で26回の地震に見舞われ、この内7〜8回は大地震だったとのことです。地震が少ない熊本との定評がなぜ生まれたのか?ガイド氏も不思議がっていました。 加藤清正が築いた熊本城は城郭全体が台地状の小山にのる平山城。市街地に接するこの台地は、「Aso-4」と呼ばれる阿蘇噴火による火砕流堆積物(層厚10〜50m)で形成されています。この時の火山灰は遠く北海道におよび15cmほど堆積しているとのことです。驚くべきは、この台地全体が今回の熊本地震の地震動で水平に移動したということです。 また、加藤清正の築城当時、城内に120ヶ所もの井戸(深度30m〜40m)を設け、現在も17ヶ所の井戸が残存しているとのことでした。ガイド氏によると、これは加藤清正が朝鮮出兵の際、ウルサンの戦いで10日間の籠城を余儀なくされた苦い経験によるものでは?と話されました。また、井戸の掘削自体が、地質調査を兼ねていたのでは?との推察には新しい歴史観が生まれました。 いずれにしても、水資源の重要性、地質調査の重要性は今も昔も変わらないようです。
STOP2:「水前寺公園」 言わずと知れた天下の名園です。正式には水前寺成趣園と呼ばれ、豊富な阿蘇伏流水が湧出して作った池を中心にした桃山式回遊庭園(栗林公園と同じ大名庭園)で、東海道五十三次の景勝を模したといわれ、熊本藩細川氏のご威光が感じられます。 熊本地震の発生後、この銘水湧く池の大部分が干上がり、池底が露出した状態になりました。水が枯れた原因は不明で「地震の影響で(湧水の)水脈が移動した可能性がある」とされていました。 この干上がり現象は、約1ヶ月後の5月17日には、ほぼ元の状態に戻り、落胆していた熊本市民を勇気づけたそうです。私たちが訪れた時には、そんな事件など何もなかったように澄んだ水に鯉が泳ぐ美しい風景を見せてくれました。
STOP3:「益城町」(熊本地震の「本震源エリア」) 益城町は本震の震源地で、多くの家屋が倒壊し、ここでも沢山の方々が亡くなられました。仮設の益城町役場前で、地元で農業を営み自身も被災者で、今も仮設住宅に住まわれる永田さん(地元公認ガイド)と合流。地震断層が地表に現れた見学地で2班に分かれ、もうひとり合流したガイドの西さん(地元NPOから)に引率され、説明を受けながら見学しました。現地では丁度、京都大学の研究者が調査孔の観測に来られていて、研究者ならではのお話しを思い掛けず聞く機会にも恵まれ、より詳しく知ることができました。 この一帯は農地で、約3年を経過した今は地震断層を直接目にすることは出来ませんが、断層を境に大きく横ずれした畦、破断された用水路、根っこから傾いた電柱、被災で人の住まない家屋等は地震規模の大きさを知るには充分でした。地震断層は、傾角70°の正断層。2.5m右ズレ・1.7m上下変位し、地表に現れた地震断層による亀裂延長は180m。これは、阪神淡路地震の野島断層を超え、世界一だそうです。また、被災者でもあるガイドの永田さんからは、沿道の仮設住宅をバスから横目にしながら、仮設住宅での暮らし、私生活の変化、復興への道のり等について生々しく、しかも決然と語ってくださいました。一日も早い復興を願うばかりです。
STOP4:「阿蘇内牧温泉」
STOP5:「大観峰」
STOP6:「阿蘇神社」 阿蘇神社は、阿蘇カルデラ平原にあり、紀元前の創立から約2,300年の歴史を有し、肥後国一の宮であると共に、全国に約500社ある「阿蘇神社」の総本社。この神社が受けた地震被害も大きく、九州最大規模の楼門や拝殿が倒壊した惨状は当時の報道で目に焼き付いています。 この神社の特徴のひとつが、楼門〜拝殿〜本殿の軸方向(東西)に対して、参道がこれに直交する南北方向に伸びることです。阿蘇神社のある阿蘇市一宮町宮地は、阿蘇五岳がもたらす地下水の自噴地帯(メカニズムは写真参照)となっていて、参道沿いの土産物店前やそこかしこに自噴井戸があり、それぞれに名前がつけられ風情のある水風景をなしています。至るところで湧く清冽な水が流れを見ていると、本当に心が蘇生する感じがします。ここ宮地地区の自噴井戸の深さは50〜60mから100m。参道のはずれで、あれこれキョロキョロしていると初老の方から声を掛けられました。すぐ地元の、吉田さんで「よかったら、ウチの井戸を見て行く?」と誘われ、お言葉に甘え見学させて貰いました。なんでも明治のはじめ頃に先々代が100m近く打ち抜いた井戸(写真参照)で自噴水頭はG.L+2mになるとのことでした。気が付くとバスの集合時間。親切な吉田さんにお礼と自己紹介をしてその場を去りました。
STOP7:「草千里」 時間の都合で阿蘇五岳のハイライトであり活発な噴煙が上がる中岳は行程から外されました。凹状地に草原が広がる草千里は、旧火口跡。あたり一帯は濃霧(雲)に包まれ、殆ど眺望が利かず残念でした。寄生火山である「米塚」は、熊本地震で火口付近に環状の亀裂を生じましたが、当日は山体をみることが出来ませんでした。根子岳はじめとする阿蘇五岳の草地斜面は、今回の地震で至るところでズリ落ち赤茶色の地肌が露出していました。これは、外輪山についても同様です。このような表層滑落の大規模なものが、昨年(平成30年)9月の「北海道胆振東部地震」(震度7)でみられた斜面表層の全面滑落なのだろうと想像されました。 広大な斜面草地には赤牛などが放牧され、のどかな風景が広がっています。自然現象がもたらす静穏と猛威の間で、私たちは生かされているとの想いを胸に阿蘇熊本を後にしました。
【あとがき】